原作との違いは、Wikiに詳しいけど、
映画でも原作でも感じたのは、「これは日本人には当たり前の働き方では?」ということ。
平日の昼間、歌とは全然関係ない仕事をしているけど、「平日の昼間」どころか、「平日の夜から会議」、
「休日の仕事」は日常茶飯事。夜11時頃までオフィスにいるなんて珍しくもなんともない。
おまけに、上司の無理難題は今に始まって事じゃないし、主人公のアンドレア(アン・ハサウェイ、とってもかわいい)がミランダにコートやかばんを放り出されるけど、アメリカ人じゃ「むっ」とするだろうけど、これに近い仕打ちを受けている日本のOLは実は少なくないんじゃないかと・・・・・・
私は昔、小さな団体に総合職で入社して、一般職の人が忙しかったときに、
お茶くみしたらアメリカで長く働いていた当時のボスから、「総合職なんだからお茶組しなくていい。
そんなことのために給料払っているわけじゃない」と怒鳴られましたが・・・・・
それって、日本の状況には著しくそぐわなかったと思う・・・・。
今も一応、総合職だけど、現在のボスの下では秘書的な仕事も兼務で(秘書だけにするとか、どうにかしてほしい)ミランダのいちいちの指示に「あ~うちのボスもこんな感じ~」と思っておりました。
それだけに「こんな働き方では人間性が磨り減ってしまう」という主人公の友達や彼氏には「日本のサラリーマンを見よ!!」という気がしましたが・・・・
本当は、日本のサラリーマンの働き方こそ換わらなきゃならないのかな?
この映画から、おしゃれを取り去って、登場人物をオヤジ上司と新人OLにしてみると、もっと身近に感じられるのかも。身近すぎて見たくないかも知れないけどね。
またまたマンガを読んでしまいました。
一条ゆかりのプライド!・・・・最初は???という選曲が多かったこのマンガですが、最近は一条氏もオペラの勉強をしているのか、???の具合が少なくなりましたよね。
とはいえ、「イタリア語の発音が良くなった」萌ちゃんがGrazie を「グラッチェ!」と発音するのは勘弁してほしい・・・・と思っている歌い手さん、どのくらいいるでしょうか?
マエストロ寺川が聞いたら目を白黒させそうだけど(^^;)
正確に言うと、「今日読んだ本」ではないけれど・・・・
先日、単行本でやっと「テレプシコーラ」10巻を読んだ。
山岸涼子はずーーーっと読んでいる作家だし、「アラベスク」は語りつくせないほどの影響を与えられた作品だったけど・・・・。
テレプシコーラを読んで夢に見てしまいました。千花ちゃんが死んだこと。
いい年して、こんなにショック受けるとは思っていなかったのですが・・・・。
何気なくネットで検索したら、多くの(多分同世代)の方が、涙していた千花ちゃんの死。
15年足らずの人生で、多分辛い記憶のほうが多かっただろう(だって子供の頃の楽しい人生なんて、思春期の辛い経験に比べたら、彼女の記憶にどの程度残っているか・・・)・・・・・
踊れない自分は望んでいた自分と違う生き方だ、と知ってしまったのか。若いゆえに思いつめてしまったのか・・・・若い頃思いつめた記憶が多くの中高年(失礼)の方の琴線に触れるのか・・・。
踊れない=生きていられない、というのが「テレプシコーラ」たる所以なのでしょう。
バルザックの小説は、作者でさえも登場人物が実在するかの錯覚にとらわれたというけれど、作中の中学生の行き方に涙させる山岸涼子はバルザックに匹敵する作家だと思う。
余談:それにしても「はちみつとクローバー」もそうだったけど「生きていくこと」と「自己の芸術」がイコールな作品が目に付く。芸術至上主義が昨今の流行なのだろうか?